モンゴル留学レポート
365体育直播学部 仲山 拓人さん
モンゴル留学レポート
私は2010年3月からモンゴル国に留学し、モンゴル国立大学(Монгол Улсын Их Сургууль)で学んでいる。大学では社会学部の社会?文化人類学科(Нийгэм, соёлын антологий тэнгхим)に所属しているが、現在はモンゴル語習得のための準備クラス(Бэлтгэлийн анги)で勉強している。
私がモンゴル国に渡ったのは、外国人の視点を得たいがためである。日本人が外国や外国人に対して「おかしい」「変だ」と感じることが少なからずある。だが当然外国人は日本や日本人に対してそのように感じることがあるはずである。私が求めているのは、普段見過ごしている日本の性質、特徴のようなものを感じ取れる感覚である。異なる価値観で動いている社会に身をおくことで、見えなかったものが見えてくるのではないかと期待している。
モンゴル国の玄関、チンギスハーン国際空港に着いたのは2010年3月4日の深夜であった。飛行機から出た瞬間に、空気が違うのを感じた。まず匂いが違っていた。今まで感じたことの無い匂い。家畜の匂いがすると聞いていたが、あれのことであろう。そして、屋内であっても感じる強烈な冷気の気配。外国に来たのだと疲れた頭でなんとなく感じていた。
翌日からこちらで生活するための準備を始めた。私は大学の外国人寮に住んでいるのだが、到着した当時、およそ十人と意外に多くの日本人がすんでおり驚いた。おかげで、モンゴル語がほとんど出来ず、右も左も分からないような状態でありながらも、楽に準備を整えることができた。
到着の数日後から授業に参加し始めた。これがなかなか大変であった。この国では学校は九月から始まり六月に終わる(実際には五月末に試験があったので、学生は六月から休業状態であった)。だから、三月の時点で授業は相当に進んでおり、私が入った初級クラスであっても内容は難しいものとなっていた。初めのうちは先生の話していることが何一つ分からず、黒板を読むことも出来なかった。その頃の自分のノートを今見ても何が書いてあるのかよく分からないほどである。
それでも、クラスの雰囲気が非常によく、授業は楽しいものであった。日本人が多かったがほかに韓国、朝鮮、ロシアなどの学生がいた。クラスは十二人で教室は小さく、学生同士や先生との距離が近く、話しやすい、あるいは話さざるを得ないという非常によい環境である。
授業は質が高く、おもしろかったがモンゴル語の上達に欠かせなかったのは、モンゴル人の友人との会話である。メールやチャットで頻繁にやり取りをしているうちに、語彙が増え、また習った文法を実際に使うので授業を理解するのに大いに役立った。何より話したいというはっきりとした目標が学習意欲につながっている。
クラスメイト
馬頭琴の練習(本人)
夏休みに入るまでは首都ウランバートルからあまり出なかった。この都市は現在急速に近代化されており、たいていのものは手に入り、生活に不自由することは無かった。慣れてしまえば学生寮に住んでいる限り、不便だと感じることは少なかった。
ただし、ウランバートルでは貧富の差が大きく、設備の整った住宅がある一方で、路上で寝起きする人も多い。正確かどうかは知らないが都市の中心部の建物にすんでいる人々は都市人口の三割で、残りの人々は都市周辺部にゲル(モンゴルの移動式住居)で暮らしているのだと聞いたことがある。
急速な近代化による歪みのようなものが現れている。これについてはよく勉強してからあらためて書いてみたいと思っている。
夏休みになってから首都を出て?草原の国?を実感した。
六月の初めに、フブスグルというところへ一週間ほど旅行に行った。本格的な旅行はこれが初めてであった。車で草原の只中の道なき道を行くのは楽ではなかったが、このとき改めてモンゴルにいるのだと実感したものだ。それにしても、運転手がどうやって道を選んでいるのかが不思議でならない。素人には目印など無いも同然なのだが。
七月七日から八月十四日の一ヶ月余り、友人の実家にホームステイをする機会に恵まれた。首都からおよそ630kmのところにあるバヤンホンゴル県のバヤンホンゴルという街である。そこで何か特別なことをするでもなく、ただモンゴルの家族と一緒に暮らしていた。
私が実際にお世話になったのは友人のお兄さんの家であった。お兄さんは奥さんと二人で暮らしていた。友人は二軒隣の家に両親と住んでおり、私がお世話になったお兄さんの家の裏にはモンゴルゲルが建っていて奥さんの両親が住んでいた。この三軒の間では人の行き来も物の移動も頻繁で、まとめてひとつの家のような感じであった。
電気は来ていたが水道はなく、庭に井戸があった。庭には畑があり大根、キャベツ、ジャガイモや人参といった野菜を栽培していた。また、向日葵が植えてあったが観賞用ではなく油を採るのだそうだ。
住んでいたのは街であったが、首都に比べるとお金で買うものは格段に少なかったように思う。野菜は自給しているし、肉も店で買うのではなく遊牧民のところまで行き家畜をもらってきて、自分たちで出していた(家畜を殺して食肉を得る作業をモンゴルでは家畜を“出す”と表現する)。野菜も肉も店やザハ(зах:市場のこと)で売っているのだが、友人の実家では遊牧民から直接家畜をもらって出していた。おかげで首都にいては絶対に出来ない経験をすることが出来た。
最近では若い世代では自分で家畜を出すことが出来ない人も増えているようだが、友人の一家は慣れたものであった。特にお世話になった家の奥さんのお父さんは一番のベテランで、その腕前は素人目にも見事だと感じた。
家畜を出した日はその内臓の料理を食べる。これがまあ、何と言うか、見た目からして大方の日本人には食べるのに勇気が要りそうな代物で、味も慣れるまでは正直なところおいしいとは言えないものであった。それでも、私は遊牧民のところに一緒に行き、群れの中から生きた羊を選んでつれて帰り、それを殺して、料理が出来上がるまでの一部始終を目の当たりにしたのだ。食べないという選択はありえなかった。滞在中、数度家畜を出す機会があり、わたしも一部の作業を手伝うようになった。内臓料理については程なく慣れた。今ではそれなりに好きな部類に入る。
この経験を通して“食べる”“生きる”ということについての意識が大きく変わった。他の生物の生命によって生かされているということは頭では分かっていたつもりだったが、本当の理解とは程遠かったように思う。私はこの作業を撮影させてもらった。写真でどこまで伝えられるか分からないが、ぜひ見てもらいたい。
モンゴル人と暮らしていて興味深かったのは、彼らが出会って間もない相手とも旧知の仲のごとく接することである。例えば、一軒のゲルを探して草原の只中を彷徨ったことがあるが、点在するゲルで道を尋ねながら進むのである。初対面であるはずなのに、よく知っている間柄のように見えるのである。
私自身も、自分以外は友人の家族親戚ばかりという、あらためて考えればかなり居心地が悪そうな状況にあったはずである。相手方にしてみれば明らかに異質な人間が混じっているにもかかわらず、まるで初めからそこに居るかのように私を扱ってくれるものだから、到着間もない頃はともかく、すぐに馴染んでそのような居心地の悪さは感じなかった。むしろ、あまりの居心地のよさに、本当に自分の家であるかのごとく感じることもしばしばであった。
それゆえ、首都へと戻るときはつらかった。戻ってしばらくは、日本から来たときのようなかなり重度のホームシックのような状態になってしまった。二ヶ月ほど経った今でもバヤンホンゴルが恋しくなることが少なくない。
ホームステイを経て、語学力はずいぶんと向上したようである。一ヶ月あまり、日本語をほとんど使わなかったのだから、向上していなければ困るが。前半に比べれば言葉の面でやや余裕が出てきたのだから、興味のあることに色々と手を出してみたいと考えている。
また、この半年あまりで様々なことを感じたり考えたりしているのを、文章に起こさなければと考えている。
バヤンホンゴルの友人
(2010年10月)